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聖宝(しょうぼう)とは、平安初期(832-909)に活躍した真言宗の僧侶で、修験道中興の人とされ、当山派修験の祖と仰がれる人物です。
また、「小野流(おのりゅう)」と言われる、真言密教における事相(じそう)の二大流派の一つの基礎を築いた人としても、仰がれています。
俗名は、「恒蔭王(読み不明)」といい、天智天皇の後裔であったと言われています。聖宝には、宝永四年(1707)に、第113代東山天皇から贈られた、「理源大師(りげんだいし)」との諡号(しごう)があります。
聖宝が生まれたのは天長九年(832)、出生地は諸説あって、はっきりとわかっていません。大和国(奈良)説がよく挙げられますが、讃岐国(香川)であるとしている伝記(『元亨釈書(げんごうしゃくしょ)』)もあります。
聖宝は、14才で空海の実の弟で十代弟子の一人にも挙げられる、東大寺の真雅(しんが)に従って出家。いわば空海の孫弟子となります。以降、南都の諸大寺にて、三論(さんろん)・法相(ほっそう)・華厳(けごん)など顕教を学び、真雅や金剛峰寺の真然(しんぜん)、東寺の源仁(げんにん)から密教を受けて、56才で真言密教の正統な継承者となっています。
また、聖宝は、貞観十六年(874)に、京都山科は笠取山上で、准貞観音(じゅんてい かんのん)と如意輪観音(にょいりん かんのん)を祀る小堂を建立しています。のちの醍醐寺です。そして、貞観十七年(875)には、東大寺大仏殿の東南に、薬師堂を創建。のちの東大寺東南院です。これら両寺は後代それぞれの地で、政治的に大変な権勢を誇る大寺院となっていきます。
そして、聖宝は、寛平二年(890)に貞観寺(じょうがんじ)座主、同じく寛平六年(894)には、当時の真言宗の最高位たる東寺長者となり、朝廷より僧正位を賜っています。また、東大寺別当も勤めるなど数々の重席についています。しかし、延喜九年(909)には諸職を辞して、京都深草の普明寺(ふみょうじ)に退き、ついに同年七月六日、没しています。享年78歳。
世間の喧噪から離れて、静かで得体の知れぬ、時として恐怖すら感じる山奥深くに、必要最低限の物だけを携えて独り分け入り、樹の下や洞窟で寝起きし、そこで冥想して心を清めるという修行。このような修行を、仏教では「頭陀(ずだ)行」の一つに数えています。この修行によって行者は、衣食住や名誉・権勢などへの執着のむなしさを知って、これを断ち切り、心を清めるのです。
頭陀とは、「ふりはらう」を原意とする、サンスクリット「dhūta(ドゥータ)」の音写語で、一般に「禁欲生活」の意味に用いられる言葉です。「抖藪(とそう)」とは、このdhūtaの漢訳語です。
奈良中後期から平安初期にかけ、権力にあまりに近くなりすぎたが為に堕落した僧侶たちの存する教界を嫌い、それが国禁でありながらも山林に入って修行に励む、正式な僧侶や半俗の者が多数あったようです。
中国から日本に密教を伝えた空海、天台や密教の一部を伝えた最澄など、平安期仏教界の立役者ともいうべきこの龍象も、若かりし頃、栄誉権勢を嫌って深山に身を投じ、頭陀を行じていたことが、彼ら自身の著作から直接知ることが出来ます。
聖宝もまた、その晩年こそ天皇や貴族達の帰依を受け、朝廷から庇護されて、かずかずの重席につくなど、権勢をほしいままにする地位にありましたが、若かりし頃から、南都諸大寺で学問を修めるだけでなく、役行者に心酔して、吉野などにて山林抖藪(さんりんとそう)の行に励んだ、実践修行の人だったのです。
聖宝は、役行者以降途絶えていたと言われる、大峯山(おおみねさん)の入峯(にゅうぶ)修行を、正式に再興しています。
さて、聖宝は、大峯山を「一乗菩提正当の山」であると把えています。これは、大峯山が「生きとし生けるものが皆等しく悟りに至り得る真実の山」であるという意味です。この「正当の山」という言葉から、後代に聖宝を祖と仰ぐ修験道の流派は、自らを「当山派」または「当山方」と名づけたのです。
また、伝説では、寛平七年(895)、聖宝は大峯山中にて、金剛蔵王(こんごうぞうおう)菩薩の姿をとって現れた役行者に出遇い、龍樹(りゅうじゅ)菩薩に引き合わされて、「恵印法流(えいんほうりゅう)」という秘法を伝授されたとしています。この不思議な伝授は「霊異相承(りょういそうじょう)」と言われます。「恵印法流」は正式には、「最勝恵印三昧耶法(さいしょう えいん さんまやほう)」といい、当山派修験道の特徴、核心とも言える修行法で、今に伝えられています。
聖宝は、大峯山を中心とする修験道に、仏教の思想と密教の修行をもたらして、体系化させるにいたる基礎を作り上げた人だったのです。それは、南都六宗に代表される顕教を修めた学僧ながらも、頭陀に励み、空海が伝えた密教の正当継承者ともなった、聖宝であったからこそなしえた偉業だった、と言うことが出来るでしょう。
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